序章 占いって何をしているのか
占いとは? これから始める人が、いちばん最初に知っておくこと
この記事で分かること
- 同じ生まれでも同じ人生にはならない、と占いの古い本が自分で書いていること
- 占いが実際にやっているのは、当てることより「決める」手伝いだということ
- 占いには「生まれで見る」「その時で見る」の2つの入口があること
「占いって、当たるんですか?」
これから占いを学ぼうという人が、いちばん最初に訊かれる質問です。友だちにも、親にも、たぶん職場の人にも訊かれますし、そのたびに何と答えるかで、あなたがこの道をどう考えているかが伝わります。
先に答えを言います。占いは、当てるためのものではなく、決めるためのものです。
意外に思われるかもしれませんが、これは新しい考え方ではありません。同じ日に生まれても同じ人生にはならない、と書いた本があります。日の吉凶の決まりをずらりと並べておきながら、ここに挙げたのは全部ではない、一つに決めて論じることはできない、と自分で断っている本もあります。この記事は、その順で見ていきます。
同じ日に生まれても、同じ人生にはならない
『滴天髄』という、生まれた年・月・日・時刻をもとに人を読む本があります。いま私が使っている見方の、もとになった本の一つです。その中に、こんな一節があります。
凡同年月日時,而百人各一應者,固當究其時之先後,又當論其山川之異,世德之殊,十有九驗,其不然者,不過此則有官,彼則多子,此則多財,彼則妻美,小異耳
同じ年に、同じ月に、同じ日の同じ時刻に生まれた人が百人いたとして、その百人が同じ人生を歩むわけではない。この本はそう言います。
そのうえで、何を見るのかまで書いています。生まれた時刻の、その中でも前か後か。育った土地の違い。家に代々あった考え方の違い。そこまで見なさい、と。
当たり方についても、この本は書いています。「十有九驗」。十のうち九つ、という意味です。
そして、当たらない一つについても、こう続けます。片方には役職があり、片方には子が多い。片方には財があり、片方には良い連れ合いがいる。違いは小さい、と。
ここは正直に読んでおきます。この本の書き手は、自分の方法を控えめに言っているのではありません。むしろ「よく見れば分かる」と言っています。
この段は「學者察此,可以知興替矣」で結ばれています。よく見る者は、伸びていくときと落ちていくときが分かる、という意味です。
では、私はなぜこれを引くのか。当てられると言うためではありません。この本が「同じ生まれでも同じ人生にはならない。土地と、家に代々あった考え方まで見よ」と書いているところが、いまも役に立つからです。
では、古い本が「ここまでしか言えない」と自分で書いている箇所は無いのか。あります。次の節で見ます。
「ここに書いたのは、ほんの一部です」
次は、別の本です。『協紀弁方書』といいます。こちらは人ではなく日を見る本で、暦の吉凶をまとめた大きな本です。私の写しの表紙には「欽定」とあります。成立した年や、編まれた経緯までは、私は確かめていません。日の見方を書くときに、私がよく引く本でもあります。ここにも、似た一節があります。
今具列各條之下隂陽之變化無窮夫亦舉一隅雲耳
ここに挙げるのは、ほんの一部にすぎない。そう書いてあります。日の吉凶の決まりをこれだけ集めて並べておきながら、この本の作者は、自分の集めたものが全部ではないと、本文の中で自分から断っています。
同じ本には、日の吉凶の見方についても書かれています。ただしこちらは編者自身の言葉ではなく、編者が『考原』という別の書から引いた一節です。
大抵凡日吉神多則吉凶神多則凶…亦未可以執一而論也
よい日を示すものが多ければよい日、悪い日を示すものが多ければ悪い日。ただし、一つに決めて論じることはできない。そう続きます。
編者は規則を書く。けれど、その規則だけで決まるとは言わない。古い書物が、そういう書き方をしています。
では、占いは何をしているのか
さきほどの『滴天髄』を、もう一度開きます。こんな一節があります。
不知命者如聾瞶,知命者於順悖之機而能理會之,庶可以開之耳
自分が生まれ持ったものを知らない人は、耳が聞こえず目が見えないようなもの。それを知る人は、流れに乗る場面と逆らう場面の分かれ目を理解できる。
「当たる」ではなく、「理解できる」と書かれているところが大事です。
ここが、占いの立ち位置をいちばんよく表していると思います。占いは、これから起きることを言い当てる道具ではなく、いま自分がどのあたりに立っているかを考えるための道具。そういう言い方も、古い本の中にあります。私はそちらを採ります。
「当てる」と「決める」の、2つの使われ方
ここまで読んで、こう思った人がいるかもしれません。
「じゃあ、結局のところ当たるんですか、当たらないんですか」
正直に答えます。古い本は、当たると書いています。『滴天髄』は十のうち九つと書き、よく見る者は、伸びていくときと落ちていくときが分かるとまで言いました。私は、そこを隠して「占いは当たりません」と言うつもりはありません。
そのうえで、私は同じ道具を、別の使い方で使っています。
当てる使い方は、答えを外から受け取る使い方です。「この日にしなさい」「その人はやめなさい」と言われて、そのとおりにする。楽に見えることがあります。自分で決めなくていいからです。
決める使い方は、材料を増やしてから自分で選ぶ使い方です。いま自分がどのあたりに立っているのか。どちらを選ぶと、どんな材料が見えてくるのか。それを並べたうえで、選ぶのは自分。
どちらが偉いという話ではありません。当てる使い方を求めて来る人はたくさんいますし、その人を責めるつもりもありません。ただ、私が引き受けられるのは後のほうだけです。前のほうを引き受けると、その人の決定が私の言葉に寄ってしまうからです。
占いには、大きく2つの入口がある
たくさんの流派があって、名前を覚えるだけで大変ですが、入口そのものは大きく2つに分かれます。ここを押さえておくと、あとから出てくる名前がどちらの側のものかで整理できます。
1つは、生まれで見るものです。生まれた年・月・日・時刻から、その人を読みます。
天氣始於甲干地氣始於子支…遠可步於歲而統六十年近可推於日而明十二時
干支は、年から時刻までを刻む物差しだ、という説明です。
ここも正直に書いておきます。この本はこの先で「將攷其細而知未萌之禍福」と書きます。まだ芽生えていない禍福(わざわいと幸い)まで、細かく見れば分かる。そういう言い方をしています。この本は、その力を大きく語る側です。私が引くのは、物差しの話までです。
星で見る方法もあります。
人命推排十二宮宮星為主實難通今人只論元來曜誰把宮神主宿窮
生まれの盤に十二の場面を置き、そこに星を配る。そういう形です。
この一節は「實難通」。実に通じがたい、と言います。ただし私は、これを方法そのものを疑う言葉ではないと読んでいます。続きは「いまの人は目立つ星ばかりを論じて、宮の主となる星を誰も窮めない」。当時の書き手が、当時の術者に向けて言っています。難しいから捨てよ、ではなく、難しいところまで見よ、という書き方です。
もう1つは、その時で見るものです。日を選ぶ方法が、ここに入ります。
厯家以建除滿平定執破危成收開閉凡十二日周而復始觀所值以定吉凶
十二の名前が十二日で一巡し、その日に当たったものを見て吉凶を定める。暦の作り手が、そう宣言しています。
いまはこの2つを覚えておけば十分です。2つの入口そのものは第3題で、そのあと1つずつ扱っていきます。
たとえば、こんな人がいたとします
古い本の話が続いたので、いちど今の場面に降ります。これから書くのは架空の話で、実在の誰かのことではありません。
専門学校に行くか、働きながら独学するかで、半年迷っている人がいたとします。学費は2年でおよそ200万円。親は「働きながらでもできる」と言い、本人は「まとまった時間がほしい」と言っている。どちらにも理屈があるので、決まりません。
ここで私が「専門学校に行けばうまくいきます」と言ったら、それは当てているのではありません。この人が決めるはずだったことを、私が代わりに決めてしまっただけです。
私がするのは、たぶんこうです。生まれた時の暦を並べて、この人がどういう場面で力を出しやすい形に見えるかを言う。そのうえで、こう付け足します。これは200万円を出す理由にはなりません、と。お金と時間の勘定は、占いの外にあります。
半年迷っている、ということ自体も、私は一緒に見ます。迷いの長さも、手がかりの一つになると思うからです。
「古い本にこう書いてある」と言えないもの
ここまで、古い本の言葉を並べてきました。ただ、私が扱っているもののうち、古い本に書いてあるとは言えないものもあります。隠す話ではないので、先に書いておきます。
1つめ。「今日が何の日か」の当てはめは、全部 私の計算です。古い本が与えるのは規則までです。今日への当てはめは、私が手元に置いている六十四本のどれにも書かれていません。規則は本のもの、当てはめは私のものです。ここは分けて受け取ってください。当てはめが外れていたら、それは本ではなく私の落ち度です。
2つめ。六曜です。私が手元に置いている古い本の写しは、全部で64あります。その全部を機械で掃いても、大安・仏滅・先勝・友引・先負・赤口という6つの名前は、1件も出てきません。旧暦の月日から機械的に決まる規則は書けますが、その規則も古い本には見当たりません。いつ、どこから広まったのかも、私の手元では確かめられていません。私がしているのは、その規則で今日の分を計算することだけです。大安がよい日だという意味づけも、由来のはっきりしない言い習わしです。
ややこしいのは、「六曜」という言葉のほうは、古い本に出てくることです。私の写しでは、二つの書に出てきます。『張果星宗』では、木・火・土・金・水の五つの星と並べて出てきて、日や月をふくむ六つの星の名前でした。もう一つは『遁甲演義』で、こちらも日の名前ではありません。同じ言葉でも、指しているものが違う。これも、分けて読む練習のひとつです。
3つめ。私が使っている型の組み方は、私の設計です。同じ組み方を、私は見たことがありません。
私がこの線を最初に引いておくのは、あとで自分が困らないためです。どこまでが古い本に書いてあることで、どこからが後の人の言い習わしなのか。ここを分けられる人は、この道に入ってからも、そう多くありません。
まとめ
占いは、当てるためのものではなく、決めるためのものです。
古い本は、同じ日に生まれた百人が同じ人生を歩むわけではないと書き、そのうえで時刻の前後・土地・家風まで見よと言いました。網羅していないことは編者が自分で書き、一つに決めて論じられないというのは、その編者が引いた別の本の言葉です。
これから占いを仕事にするなら、私が最初に覚えたことを一つだけ置いておきます。古い本が「ここまでしか言えない」と書いている場所を、そのまま覚えることです。そこを飛ばして先へ進むと、あとで自分の言葉のどこまでが本に書いてあったのか、分からなくなります。
次の第2題では、そもそもなぜ人が暦を作ったのかを見ます。2つの入口に戻るのは、その次の第3題です。
要点まとめ
- 『滴天髄』は、同じ生年月日時でも百人が同じ人生を歩むわけではないと書き、時刻の前後・土地・家に代々あった考え方まで見よと言った
- 古い本が書いているのは「流れの分かれ目を理解する」こと。決めるのは、いつも自分
- 占いは当てる箱ではなく、決めるときの道具として使われてきた
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